ニホンジカの鋤鼻器複合体の形態学的研究
発行年・号
2004-45-03
文献名
ニホンジカの鋤鼻器複合体の形態学的研究
(A Morphological Study on the Vomeronasal Complex of Sika Deer(Cervusnippon))
所 属
仙台市八木山動物公園,宮城県農業短期大学 東北大学,日本大学
執筆者
鹿股幸喜,池田昭七,佐々田比呂志,岡野真臣
ページ
67〜72
本 文
ニホンジカの鋤鼻器複合体の形態学的研究
鹿股幸喜1,池田昭七2,佐々田比呂志3,岡野真臣4
1仙台市八木山動物公園,2宮城県農業短期大学
3東北大学,4日本大学
A Morphological Study on the Vomeronasal Complex of Sika Deer(Cervusnippon)
Koki Kanomata1,Shoshichi Ikeda2,Hiroshi Sasada3 and Masaomi Okano4
1YagiyamaZoo,Miyagi,2Agricultural Junior College of Miyagi Pref.,Miyagi,
3 Tohoku University,Miyagi,4Nihon University,Kanagawa
鋤鼻器は嗅覚器の遺残器官または退化器官として取り扱われてきた.近年,鋤鼻器が動物の生殖生理や行動と深いかかわりを持っていることを示唆する報告が見られるようになり(Estes,1972;Stoddart,1976;正木,1988;正木・鹿股,1992;鹿股ほか,1993;Hart,1995;森・濱田1996;鹿股ほか,1999a;鹿股ほか,1999b;鹿股ほか,2000),鋤鼻器の重要性が再認識されるようになった.
鋤鼻器の形態学的研究については,実験動物のマウスやラット(佐藤ほか,1993;Taniguchi,1982;Taniguchi,1983),家畜のシバヤギやウマ等で報告が見られるが(高橋ほか,1989;Okanoetal.,1998),野生動物についてはニホンカモシカやオグロジカの報告(小暮ほか,1989;AltieriandMuller,1980)などがあるものの,ニホンジカについては口頭発表(鹿股ほか,2000)のみで,まだ報告が見られない.そこで,ニホンジカの鋤鼻器複合体の形態学的な特徴を検索した.
材料および方法
著者らは以前から鋤鼻器に関心があり,たまたま今回ニホンジカの死体を入手する機会があり,この研究を行った,供試材料は,宮城県農業短期大学附属学内農場で飼育中のニホンジカ3頭(雄:1歳4カ月,雌:3歳4カ月,5歳5カ月)から採取した.ニホンジカは安楽死とし(筋弛緩剤0.05㎖/kg体重当たり筋肉注射し不動化の後,麻酔剤0.04㎖/kg体重当たり静脈注射),部位別肉重量・肉成分分析の採材の残試料として譲渡を受けた.直ちに,頭部のみを切り離し10%ホルマリン水溶液中に保存した.固定された頭部を断面作製機を使って横断または矢状断し,それぞれの断面を作製して,形態学的観察を行った.頭部の横および矢状断面を実体顕微鏡下で観察し,ニコンマルチフォト装置で撮影した.また一部をパラフィン包埋し,連続横断薄切切片を作製し,HE染色を施し光学顕微鏡下で観察した.
結 果
ニホンジカを解剖学的に頭部の断面および切歯乳頭部と,それに続く鋤鼻器に分けて観察した.
頭部の矢状断面および切歯乳頭部
頭部の矢状断面を図1に示した.腹鼻甲介,背鼻甲介,鼻中隔,中鼻甲介が観察された.中鼻甲介は,他の家畜類と同様に特徴的な篩骨迷路を形成し,嗅粘膜で被われているので,鼻腔喫部(固有嗅覚器)と考えられる.縦線は鋤鼻器の存在部位を示した.次に硬口蓋に見られる切歯乳頭(IP)を図2に示した.矢印は鋤鼻器の見られる部位を示し,P1は左右第一前臼歯である.切歯乳頭の拡大写真が図3で,その大きさは8.0mm×5.5mmであった.矢印は左切歯管の口腔開口部を示し,長さが1.5mmであった.切歯管は鼻腔と口腔をつなぐ細管で,鼻腔側にも開口部がある.切歯管に鋤鼻管が吻合している.
鋤鼻器
鋤鼻器は,鼻中隔腹側基底部に認められ,ダイヤモンド型の切歯乳頭両側に開口する切歯管の,切歯管一鋤鼻管吻合部から起こり,末端は左右第1前臼歯を結ぶ仮想線上で盲端に終わる,全長約5.7cmの一対のやや膨隆した細管として認められた(図2).さらに,鼻腔横断面像では鋤鼻器はC字型の狭い間隙として認められた(図4).つぎにパラフィン包埋した組織切片標本(HE染色)を見ると,鋤鼻管腔(LU)の大きさは5.0mm×1.5mmであった(図5).
鋤鼻器を高倍率で観察すると,内側壁は神経感覚上皮からなり,化学受容ニューロンの樹状突起が毛筆のように膠着した微絨毛の束を持ち(図6),この粘膜固有層に太い鼻神経の束が多数見られた(図7).また対面する外側壁は非感覚上皮からなり運動性を有する長い線毛を持つ偽重層線毛上皮で(図8),粘膜固有層に多くの血管と発達した鋤鼻腺が見られた(図9).
考 察
フレーメンと重要な関連があるとされるニホンジカの鋤鼻器官に関し,ニホンジカを対象に検索した.フレーメン行動は動物が鼻尖を歪め,歯を剥き出す仕種で,笑うとも表現されている仕種で,一連の繁殖行動として広く知られるようになった(Wysocki,1979).フレーメン行動が特徴的な仕種であるため,広く注意をひく結果となり,この分野の研究成果が報告されるようになった(鹿股ほか,1999a;鹿股ほか,19995).フレーメンは微量の化学物質を鋤鼻管内に導入する目的で,動物が口唇,鼻尖および切歯乳頭などを連動させて,細い盲管内にフェロモンを送り込むために行う一連の行動である(Powers and Winans.,1975;Verberne,1976;Wysocki,1979;Wohrmann-Repenning,1991).そしてフェロモン取り込みの機能を果たすために必要な切歯乳頭や切歯管などの付属装置を全体的に鋤鼻器複合体と呼ぶようになった(Jacobs et al.,1980,1981).今回の報告では切歯管と鋤鼻管吻合部の所見(鹿股ほか,2000)は記載出来なかったので,別の機会に報告したい.
鋤鼻器は,水中生活時代の嗅覚器の遺残と考えられ(加藤・山内,1998),系統発生学的には両生類から出現しヘビ,トカゲなどの爬虫類でよく発達するがワニの仲間には存在しない.また,鋤鼻器は鳥類には存在せず,哺乳類ではげっ歯類などでよく発達し,イヌ,ネコ,ブタ,ヤギ,ヒツジ,ウシおよびウマなどの家畜でも良く発達しているが,クジラの仲間やヒトを含む高等な霊長類には存在しないといわれている(谷口,1999).しかし,その系統発生的には不明な点も多く,近年,ヒトにも鋤鼻器が存在するという報告がある(Moranetall,1991;Stensaasetal.,1991;市川,1996).本研究の結果で,ニホンジカの鋤鼻器は上顎前方中央に認められ,ダイヤモンド型の切歯乳頭両側の切歯管開口部から鼻中隔腹側に横たわる一対の細管として存在していた.同様のことはオグロジカ(Odocoileus hemionius columbianus)やニホンカモシカ(Capricornis crispus),シバヤギ(Capra hircus)でも観察されている(AltieriandMuller,1980;小暮ほか,1989;高橋ほか,1989).またフェロモンを感知する感覚上皮を持つ鋤鼻器の長さはニホンジカで全長5.7cmで太さは14mmであった.これはニホンカモシカが全長約5cm(小暮ほか,1989)でシカよりやや短く,ウマでは12.5cm(Okanoetal.,1998)とシカより長く,動物種により異なっていた.
ニホンジカの鋤鼻管腔の内側壁は感覚上皮により,そして外側壁は運動する長い線毛を持つ偽重層線毛上皮性の非感覚上皮で被われていた.この所見はシバヤギ(高橋ほか,1989)やイヌ(岡野ほか,1989)などと類似していた.しかしニホンカモシカでは(小暮ほか,1989),感覚上皮が管腔の内側だけに存在するだけでなく,内外両側の区別なくみられ,ニホンジカと位置的な違いが認められた.さらにニホンカモシカでは,外側壁には気管の管壁に見られるような太くて長い線毛が見られ,シバヤギでは非感覚上皮の線毛は動毛で芝生の様相を呈していた.ニホンジカでは,運動性を有する長い線毛を持ち,偽重層線毛上皮でニホンカモシカやシバヤギと違いが認められた.鼻腔横断面像では,ニホンジカの本管がC字型の狭い間隙として認められたが,イヌでは半月形,シバヤギでは三日月型,ニホンカモシカでは楕円を示し,ニホンジカとの違いが認められ,種により形態学的に相違していることが明らかとなった.しかし以上のような相違点が見られたものの,ニホンジカの本管がこれらの動物種と,組織学的に同類の感覚上皮と非感覚上皮を持っていることが確認された.
図1 頭部の矢状断面
VC:腹鼻甲介DC:背鼻甲介NS:鼻中隔MC:中鼻甲介
縦線:鋤鼻器の存在部位
図2 硬口蓋に見られる切歯乳頭
両矢印:鋤鼻器の見られる部位
IP:切歯乳頭(図3参照)
P1:第1前臼歯
図3 切歯乳頭
矢印:左側切歯管の口腔開口部
ニコンマルチフォト撮影
図4 鼻腔横断面の鼻中隔基底部のニコンマルチフォト撮影像
アスタリスク:狭い間隙状の鼻管腔を示す
図5 鋤鼻器の組織切片標本HE染色
LU:鋤鼻管腔(パラフィン包埋の影響で管腔が拡張
(図4のアスタリスクと比較)
V:血管
矢尻:感覚上皮
図6 神経感覚上皮HE染色×250
矢印:化学受容ニューロンの樹状突起
矢尻:樹状突起遠位端の筆毛状の微絨毛束
(フェロモンの受容サイト)
図7 左側鋤鼻器の内側壁HE染色×25
N:太い鋤鼻神経の束
SE:感覚上皮
図8 偽重層線毛上皮からなる非感覚上皮
HE染色×250
CI:線毛 G:鋤鼻腺
図9 左側鋤鼻器の外側壁 HE染色×25
G:鋤鼻腺 NSN:非感覚上皮
V:血管
要 約
ニホンジカで鋤鼻器を形態学的に調べた結果,この器官はダイヤモンド型の切歯乳頭両側に開口する切歯管と吻合する一対の細い盲管で,鼻中隔腹側に見られた.この管の横断面像はC字型を呈していた.鋤鼻器を高倍率で調べた結果,内側壁は神経感覚上皮からなり,化学受容ニューロンの樹状突起の遠位端が毛筆の穂先のように膠着した微絨毛の束を持ち,その粘膜固有層に太い鼻神経の束が多数見られた.対面する外側壁は非感覚上皮からなり運動性を有する長い線毛を持つ偽重層線毛上皮で,粘膜固有層に多くの血管と発達した鋤鼻腺が見られた.以上の結果から,鋤鼻器は退行器管ではなく固有嗅覚器と異なる特殊な化学受容器として機能している可能性が形態学的に明らかとなった.
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〔2003年5月26日受付,2004年2月20日受理〕