日本の動物園の歴史

発行年・号

2000-42-01

文献名

飼育下グラントシマウマの発情日数と発情周期
(The History of Zoos of Japan)

所 属

社団法人 日本動物園水族館協会

執筆者

小森 厚

ページ

1〜6

本 文

広島市安佐動日本の動物園の歴史

小森 厚

社団法人 日本動物園水族館協会

The History of Zoos of Japan

Atsushi Komori

Japanese Association of Zoological Gardens and Aquariums

1. 日本の動物園の始まり
17世紀初期以降,日本は,19世紀中期の明治維新に至るまで,徳川幕府によって,オランダ,中国,朝鮮を除く諸外国に対して国を鎖していた.しかし,この鎖国期間中である1725年に,一つがいのアジアゾウが,将軍吉宗の命によって,安南国より輸入され,明国船によって,当時,唯一の外国貿易港であった長崎に到着した.雌は到着後間もなく長崎で死亡したが,雄は長崎から1,200キロ離れた江戸,すなわち今日の東京まで運ばれた.江戸では浜御殿で飼われたが,時には,一般市民の観覧にも供された.このことが,日本の動物園の始まりであると,私は思う雄ゾウは1742年に死亡し,その象牙と頭骨は東京のある寺に保管されていたが,第二次大戦の爆撃で消失し,写真のみが残されている.
1868年,パリで開催された万国博覧会に派遣された日本代表団は,パリで,国立自然史博物館とその付属のジャルダン・デ・プランテを見学し,日本にも,このように,動物園・植物園の付属した大きな博物館がなければならないと心に思った.従って,後年日本にできた最初の動物園は,パリのジャルダン・デ・プランテのメナジェリーがモデルとなったのである.
1873年,日本は新政府の下でウィーンで開催された万博に参加し,それに出品するために,日本全国から様々な物産を集めた.そこで,政府は,これら様々の物産を,ウィーンでの万博に出品するだけでなく,これを日本の国民の教育のためにも用いることを計画し,仮設の博物館を開設した.集められた物産の中には生きた動物も含まれていたので,そこには小さなメナジェリーがあった.

2. 上野動物園の開園より20世紀初頭まで
1882年,この「博物館」は,上野公園に移転した.そこでは1978年に第一回内国勧業博覧会が開設された跡地であった.かくして,1882年3月20日,国立博物館は,その付属動物園とともに開設され,これが,今日の上野動物園になったのである.
最初,国立博物館は農商務省に所属し,その第一の目的を産業奨励に置いていた.このことは,その博物館が自然史博物館であり,付属動物園は当然必要なものと認められていた.ところが,1886年に,この博物館は移管され,宮内省の所管とされた.このことは,博物館が自然史博物館から,歴史美術博物館にモデル変更したことを意味し,動物園は虫垂突起的存在となってしまった.ただ,当時,動物園の入場料収入は博物館の財政を支えていた.
このような事情は,日本の動物園の発展に大きな遅延をもたらした.日本の第二の動物園は,上野動物園開設の21年後,20世紀初頭にようやく現れたのである.1903年,京都市動物園が,当時の皇太子ご成婚を記念して,第四回内国勧業博覧会跡地に開設された.次いで,1915年に,大阪天王寺動物園が第五回内国勧業博覧会跡地に開園した.この両者はともに市立で,公開公園の一部を形成している,同じ年,第五回内国勧業博覧会の展示の一つとして堺市立水族館が開設されている,これは日本最初の恒久的単立水族館であった(Fig.1).

本稿は,1998年10月,名古屋市において,名古屋港水族館(内田至館長)がホストとなって開催された世界動物園機構(IUDZG-WZO)の第53回年次総会の科学セッションの冒頭で英語によって口答発表された報告をもとにしている.

Fig.11882年~1945年の間の日本における動物園・水族館の増加

3.20世紀前半,第二次大戦まで
1916年,鹿児島市で,鹿児島電鉄会社が,その郊外路線の終点近くに動物園を開設した,これは鉄道会社による誘致施設としての動物園の最初のものである,後年,この電鉄会社は鹿児島市に買収され,動物園は市営となったが,この動物園はその後も鹿児島市交通局に所属していた,現今,大手鉄道会社の大部分が,それぞれ動物園を経営している,
名古屋市では,1918年に鶴舞公園動物園を開園した,そこの動物たちは1906年から存在していた私営の動物飼育場から寄贈されたものであった,この鶴舞公園動物園は,僅か1.3haという小さなものであった,そこで,1932年になって,名古屋市では一大動植物公園の建設を計画した,ちょうどその翌年,ロレンツ・ハーゲンベック氏の率いるカール・ハーゲンベック・サーカスが日本巡業中であったので,名古屋市では,動物園建設を指導してもらうために,ロレンツ・ハーゲンベック氏を招聘した,かくして1937年に,名古屋市東山動植物公園が開園した,
それより前,1924年に,東京では,上野動物園が帝室博物館から分けられ,時の皇太子,すなわち昭和天皇のご成婚を記念して,東京市に下賜された,東京市では動物園改造の大計画を立て,その積極的な近代化に着手し,1928年には東京帝国大学を卒業したばかりの古賀忠道氏を計画推進のために招聘した,この上野動物園の大改造は1936年までに完成している,
第一次と第二次の二つの大戦の間に,日本の動物園は発展し,15動物園,3水族館を数えるまでになり,1940年には日本動物園水族館協会(JAZGA)が組織された,この時期は,日本の動物園界の最初の黄金期であったと言うことができる.
しかしながら,第二次世界大戦中,一部の動物園・水族館は閉鎖し,各動物園は多くの動物を失った,1943年夏,上野動物園では,東京市と府が合併して組織されたばかりの,東京都の長官の命令で,ゾウ,猛獣類,熊類,ヤギュウ,ニシキヘビ,毒蛇が殺処分された.そして,1945年には日本の動物園は全部で12園になってしまった.そこには猛獣類はいない,ゾウも,名古屋の東山動物園に雌2頭と,京都市動物園に1頭の雌が生き残っただけであるが,後者は戦後間もなく死亡してしまった.

Fig.2 1945年~1998年の間の日本における動物園・水族館の増加

4.第二次大戦後の発展
第二次世界大戦が終わると,直ちに,12の動物園は,上野動物園長古賀氏に率いられた日本動物園水族館協会の指導のもとに,施設と事業の復旧に全力を挙げた.1949年春,日本各地の動物園は,アメリカ合衆国ユタ州ソートレーク市のホーグル動物園から,ライオン,ピューマ,コヨテ,スカンク,等々を受け取った.次いで,同年秋に,インドのネール首相よりインディラと名付けられた雌のゾウが,日本の子供たちに贈られてきた.この二つの出来事は,日本の動物園の復興を非常に勇気づけた.
1951年,上野動物園長古賀忠道氏は,国際動物園長連盟(IUDZG)の会員となった.それ以来,古賀氏は『動物園は平和そのもの』を合言葉に,日本の動物園界を指導し,動物園の目的として,教育,レクリエーション,研究,および自然保護の四つを提唱した.
一方,第二次世界大戦までは,封建時代からの日本のお城の多くは,陸軍の司令部等の所在地となっていた.戦後,アメリカの占領軍は,旧日本軍の用地を接収したが,アメリカ政府は日本の封建主義を壊滅することを目標にしていたために,封建主義の象徴ともいえるお城は使用しようとしなかった.そこで,いくつかの都市では,このお城の旧軍用地に,「平和」の象徴として動物園を開設した.
1958年,上野動物園の第二動物園として多摩動物公園が開園した.これは,ロンドン動物園におけるホイプスネード動物公園,あるいはアントワープ動物園におけるプランケンデール動物公園に相当する上野動物園の保全繁殖基地を意味しているものである.1949年から1955年にかけて23の動物園が新たに開かれ,1956年から1965年の間に25の動物園,さらに1966年から1975年の間に19の動物園が開かれ,日本動物園水族館協会の会員は,71動物園,47水族館を数えた.この時期は,日本における動物園界の第二の黄金時代ということができる.1976年から1985年にかけては19の動物園が,そしてその後に9の動物園が開園し,1998年現在,日本動物園水族館協会の会員は96動物園,66水族館に達している(Fig.2).
最近の約15年間に,前述したお城の中に開かれた動物園の幾つかが,その都市の郊外地区に移転している.これは,封建時代のお城が文化遺産として重要視されるようになり,文化遺産の中に,動物園が存在するのはふさわしくないと考えられるようになったからである.しかし,これらのことは,むしろ動物園にとって,より大きな敷地の獲得と,施設改造の機会を与えるという,よりよい結果をもたらしている.

5.平和と動物園
さて,ここで,100年以上に及ぶ上野動物園の入園者の動向を調査してみると,動物園の来園者数と,社会の情勢との間に,ある関連のあることがみとめられる.新しく到来した動物が,人々の興味を惹いて,来園者が増加するのは当然至極のことと考えられる.たとえば,1888年に最初のトラとゾウが到来した時には,年間入園者が初めて50万人を超えた.1897年の清国からのフタコブラクダは初めて100万人近くの入園者を呼んだ,1907年に初めてのキリンが到着した年には100万人を初めて突破した.1919年に来たカバは,3年間にわたって毎年100万人の来園者を呼んだ.1933年にハーゲンベック・サーカスからキリンが買い入れられた時は,年間来園者は200万人近くに達した.第二次大戦後,1949年に,アメリカからのライオンその他と,インドからゾウのインディラが到来し,入園者は350万人を突破した.そして,1972年のジャイアント・パンダは,数年に渡って,毎年700万人を超える来園者をよんだ(Fig.3).
これとは反対に,人々が何か不安を感じ,落ち着きを失っている時,たとえば戦争勃発を前にして緊張した時には,来園者の減少が認められる.1890年前後の減少は1894-5年の日清戦役開戦前の緊張によるものと推測される.1903-4の激しい減少は1904-5年の日露戦役の開戦を前にした緊張によるものである.同様な減少が1914年にも見られ,これは第一次世界大戦によって引き起こされているようである.しかし,第二次世界大戦においては別の状況が見られる.すなわち,この時期には軍国主義者によって,動物園が戦争勝利の宣伝の場として利用されていたようで,動物園の来園者はむしろ増加している.だが,戦争の末期に動物を失ったことから,来園者は極端に減少し,1945年の敗戦によって,巨大なクレヴァスを形作っている.
第二次大戦後においても,1949年に,前述したように,ゾウのインディラの到来が驚異的な来園者の増加を招き,翌年には,トラ,ヒョウ,ニシキヘビ,アシカ,等々の到来も加わり,来園者はさらに増加するものと期待された.しかし,翌1950年には,むしろ減少が認められている.これは,朝鮮戦争の勃発によるものと考えられる.1965年前後にも,来園者の減少が見られこれはヴェトナム戦争によるものと推測される.かくの如く,動物園は「平和」あっての施設である.「動物園は平和そのものである」という合言葉は,正に真実であって,我々,動物園人にとって,かけがいのないものと言うことができる.

SUMMARY

In 1725,a pair of Asian elephants were imported to Nagasaki.The male was brought to Edo,and some times,he was put on public inspection.This was the beginning of zoos in Japan.In 1873,the new government of Japan participated in the Vienna Exposition,and collected various products from all over Japan.The government used these various products for the education of the Japanese people,and opened a hastily constructed museum.Among the products there were some living animals,so there was a small menagerie.
In 1882,the"Museum"moved to Ueno Park,and on March 20th,the National Museum was opened with including an attached zoo,which became the Ueno Zoological Gardens of today.There was some delay in the development of the zoos of Japan. Ueno Zoo was the only zoo in the 19th Century in Japan. In 1903,Kyoto Zoo,and in 1915,Osaka Tennoji Zoo were opened.In 1916,the Kagoshima Electric Railway Company opened Kamoike Zoo near the suburb terminal station of its railway line. It was the first zoo to be run by a railway company.In Nagoya,in 1937,the Nagoya Municipal Higashiyama Zoological and Botanical Parks was opened.
In 1924,Ueno Zoo was donated to Tokyo City by the Imperial Household.The zoo was remodeled extensively,and the remodeling was completed by 1936. Before World War II,there were 15 zoos and 3 aquariums,and the JAZGA was organized in 1940.However,during World War II, some zoos and aquariums were closed and many animals of each zoo were lost.The number dropped to 12 zoos in all Japan in 1945. There were no big cats. Only two female elephants survived in Nagoya.
Immediate by after World War Ⅱ,12 zoos endeavored to revive their facilities under the leadership of JAZGA.In the spring of 1949,several zoos of Japan received lions, etc.from Salt Lake City,USA.And in the autumn of the same year,a female elephant was presented to the children of Japan by Premier Nehru of India.These two events encouraged the revival of the zoos of Japan.In 1951,Tadamichi Koga,the Director of Ueno Zoo,became a member of the IUDZG.At that time Koga invented the slogan"the zoo is the peace!"
After the War, several cities opened zoos in former Army bases in old castles, as symbols of"peace".Several zoos of those moved to the suburbs in the past 15 years.These trends have been rather profitable for the zoos,which gained big new sites and a good chance to remodel.In 1958,Tama Zoological Park was opened as the conservation base of Ueno zoo.From 1949 till 1998,over 84 new zoos opened, and JAZGA members increased 96 zoos and 66 aquariums.
Surveying the ups and downs of the attendance at Ueno Zoo over 100 years,it is possible to recognize a relation between the visitors to the zoo and the condition of the world.Some new animals attracted people and caused an increase in the attendance. But when the people felt anxiety or unrest,such as the tension before the outbreak of war, there was a decrease in attendance. Thus, the zoos are facilities of"peace".I believe that"the zoo is the peace"is a valid slogan for us zoomen.
〔2000年6月22日受理〕


Fig.3 上野動物園の入園者消長